美術・絵画について

本・絵本 絵画 2012年8月10日

【ご注意ください】 はっきり言って、今日のブログはマニアックです。度が過ぎています(笑)。じっくり読んでも意味不明な言葉がたくさん出てきます。しかも長編です。ということで、興味のある方のみお読みいただければ幸いです。

先日、近くの美術館の象徴派展を見に行く機会がありました。象徴派とか象徴主義とか言われても、美術関係者または特別興味のある人たち以外にとっては、まるっきりピンとこない単なるコトバだと思います。私は学生時代、描くことだけに興味があって、絵画を見ることに関しては全く興味がない、と自分でよく言っていたのを覚えています。美術系の学校を出たからといって、美術の教員免許をとったからといって、私のようにまるで勉強しなかった人は、美術を語ってはいけないとさえ思います。しかしあえて今日書こうと思ったのは、この展覧会の予習のつもりで読んだ本で何かが弾けて一気に興味がわき、もしかしたら私のつたない文章を読んだ誰かも、美術に興味がわくかもしれないと思ったからです。その読んだ本というのは、「20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す 宮下誠著」。おそらくこの本を学生時代に読んでも、さっばり頭にはいってこなかったと思います。
まず絵画を目の前にして思うのは(私の場合)、好きか嫌いか。これに限ります。どんなに有名な画家の絵でも、ふーんすごいね。綺麗だね。とは思っても、好みじゃなければそれまでです。特に20世紀の抽象絵画ともなると何が描いてあるのか分からない。分かろうともしないし、何かのメッセージがあるのか?との疑問さえ抱かなかった。しかしこの本には、こんなちっぽけな自分の無理解が恥ずかしくなるような内容が書いてありました。
「芸術理解とは、人間理解のことである」 人間とはすなわち自分のことであり、その自分を含んだ人間が生み出す芸術について分からない、知ろうともしない、というのはちょっともったいないのでは、と思ったのです。分かりやすい具象絵画ばかりの時代から、どうして抽象絵画が描かれるような時代になったのか?いつ頃から遠近法が使われ、それはどうして使われだしたのか?そもそも絵画ってなんなのか?

何かを描くときに自然に身についている「遠近法」。これにも人間の歴史がありました。「遠近法とは西欧絵画をルネサンス以来印象派の誕生辺りまで支配し続けていた技法である」と書いてありますが、単なる技法とばかり思い込んでいたのは間違いで、それは中世の神が支配していた世界から人間中心の世界に変わったと同時に作られた新しい世界解釈のシステムだった・・・らしいです。だんだん話が難しくなってきました。つまり「おばけが怖い」のではなく、「怖いからおばけというシステムを人間が生み出した」と同じような解釈です。このあたりについて本では詳しく説明しています。生まれたばかりの赤ちゃんは言葉を何も知りません。知らないけれど、大人(社会)がそこに「名前」という説明システムを導入する。するとそこにいるかけがえのない不思議な生物とは何の関係もない「名前」によって幼児から不思議を奪い去る。説明のつかない不思議な現象が説明可能なものとして秩序化されて世の中は発展してきたのです。著者は絵画もこういった言語や遠近法と同じように世界を解釈するためのシステムのひとつに過ぎない、と言っています。
その昔、絵画の主題は限られていました。「受胎告知」や「ヴィーナスの誕生」など、キリスト教や神話の世界ばかり描かれていたのです。それは誰にでもわかる主題だったので、タイトルは最初ついていませんでした。それが絵画が市民に開放されたり美術館が一般に公開されたり、また公の場で取引されるようになってはじめてタイトルなしではいられなくなったようです。
そして絵画の主題がどんどん多様になって、統一的視点である遠近法が崩壊し、「世界をこう見なさい」→「世界はどのように見えるか」→「わたしたち(個人)は世界をどのように見るか」と、だんだんと強制されていた視点から個人の内面へ向かっていき、抽象絵画が誕生する・・・と私は理解しました。ということは、抽象絵画を見ても「分からない」のは当然かもしれない。だって私は描いた本人を知らないし、と思うのです。その人の訴えたい内面を表現したものだから。しかもそれは「訴えたい」わけでもないかもしれない。つまり、自分の内面にどんどん入り込んでとにかくそれを見つめ続けた結果、ポンっと外に出てきたものが、偶然絵画というシステムだった。というわけです。(どういうわけ・・・)

自分でも迷路に入り込んだ感じがしますが、とにかくこういった美術に関する難しい本を読んで自分なりに(あくまでも個人的に)解釈が出来た、ということに満足しています。ようは、絵画を見るときに客観的に見るか主観的に見るか、自由であって強制されるものではないということ。大昔に描かれた「世界をこう見なさい」という絵画も、現代見る私たちは自由な気持ちで見ればよいということ。「世界はこう見える」と昔誰かが生み出した遠近法をわざわざ使わなくても、「自分にはこう見える」という確信を持って表現するものも絵画であって、誰かに「下手だね」といわれるものではないこと(本当は正確な遠近法で描きたい場面で、技術が追いつかず描けない場合はこれが言い訳になるかな)。これらのことがイコール抽象絵画というわけではないけれど、何だか今までよりも芸術というものを楽しめるような気がしてきます。学生のときに感じたのは、西洋美術史や東洋美術史の授業中に「この絵の構図は・・・」とか「この○○像のカタチは・・・」と聞くと、その中に必ずひとつの答えがあるのではないか、ということ。それを覚えなければ美術を知ることは出来ないのではないか、皆が良いという絵を自分も好きにならなくてはいけないのではないか、という変な意識がありました。日本人が大好きとされる「印象派」ですが、私は学生の頃、なぜかその印象派だけが苦手でした。しかし今回、全く違う印象を持ってこの印象派(まぎらわしいわね)の勉強をはじめました。
また、高校生の時にいったん美術の成績がガクっと下がった時期がありました。その先生は「これはカタチが狂ってる。これはこんな色じゃない、ブルーを使いなさい。あの子と同じように描きなさい。」などとにかく強制ばかりで私の感じ方をひとつも肯定してくれませんでした。子どもの絵画教室にも興味がありますが、万が一こういう先生だったら・・・と思うと娘を行かせる気にはなれません。もちろん中学生くらいになって、自分でしっかりとしたデッサン力や技法を身につけたいと思った時や、美大・芸大の予備校でそれこそ確かな技術が身についていないと大学に行けないとなればその時に練習すれば良いとは思います。しかし子どものうちや、自由に趣味で描く場合は、どんな色でも、どんなカタチでも、どんなモチーフでも、とにかく自分の思ったこと感じたことそこに見えるものや想像したもの、それらを自分なりに表現できれば、それは立派な絵画だと思います。
美術の歴史を「どう見るか」という単なる「視点」の変遷ととらえてみるのも面白い、と感じることが出来た今回の本は本当に自分のためになりました。「絵は描きたいけれど見るのはキライ」だった自分ですが、「絵も描きたいし、見るのも自由に見たい」。まぁ、言ってみれば自分が一番大切であり、わがままな私を再発見するというオチなのでした。
昔、ルーブル美術館やオルセー美術館に何回か足を運びましたが、こういった広い意味での「美術」を知った上で見たらもっと面白かっただろうなと思います。「分かりやすい」絵と「分からない」絵の違いにその時代の視点が異なっていたから、という一つの知識を加えるだけで、絵画の見方もずいぶんと変わると思います。
おそらくこの本「20世紀絵画・・・」を書いた宮下さんの思惑とはかなりズレた解釈だったかもしれません。はっきり言って書いてある内容も私が感じた上記のような内容はほんの少しで、違うところに焦点があてられている気がします。しかしそのきっかけを作ってくれたというだけで感謝したいです。は~。そしてもしかしてこの脈略のない文章&結局何を言いたいのかまとまらず一人で納得しているブログを最後まで読んでくれたであろうあなたにも、感謝致します(笑)!
あれ、しかも美術館で象徴派展を見た、と書き始めたのに象徴派について一言もふれていない・・・

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